岐阜~京都リフレッシュ旅行(その2)~関ヶ原前夜編~

犬山城に寄った後、岐阜駅を経由して関ヶ原へ向かいます。

折しもこの日から2日間、「関ヶ原合戦祭り2015」が開催されていて・・・なんて、実はこの祭りに合わせて日程を決めた今回の旅なのでした。

岐阜駅から電車に揺られて30分。

関ヶ原駅が近づいてきたのでグーグルマップを開いたら、少し先の沿線に徳川家康が最初に本陣を置いた桃配山が表示されました。

駅からけっこう離れているではないか…

果たして史跡を全部回れるのか?

疑念が渦巻くなか、戦国づくしの関ヶ原駅に到着しました。

つい最近駅前にオープンした「関ヶ原観光交流館」をサッとチェックしてから、そこで手に入れた史跡マップを手に関ヶ原町役場方面へ。

線路を越えて少し進むと、「関ヶ原合戦祭り2015」イベント会場が見えてきました。

駐車場係(?)の足軽姿のおじさんがあいさつしてくれます。

なんだかのどかで微笑ましい。

時刻はちょうど16時。

祭りの出店やフリーマーケットはそろそろ店じまいを始めています。

これらは明日じっくり見ることにして、まずは一番近い史跡、徳川家康最後陣跡へ。

思っていたより主戦場に近い場所にあります。

家康もここまで前線に出ていたのか…

駅に降りたときから気になっていたのが、北側の山の中腹に旗が見える黒田長政・竹中重門陣跡。

行ってみたいのですが、1キロくらいあるようだし、日暮れまで回り切れなくなりそうなので、今日は諦め、優先度の高い西軍陣地めぐりのため、笹尾山方面へ歩く歩く。

住宅地を抜けるとカフェがあり、その先は完全に田畑地帯です。

ほかに観光客の姿は見えませんが、彼方に見える石田三成陣跡めざし、国道、そして田畑の中を進みます。

次の目的地の「決戦地」が見えてきたところで、東軍側を振り返ってみます。

このあたりは石田三成隊への闘志を燃やし、黒田長政や細川忠興らが進軍していったあたりか?

関ヶ原の戦いについて書いた本から、狭い盆地の中に大軍がひしめき合って…という印象だったのですが、思っていたよりも広いですね。

決戦地。

石田隊が黒田・細川・加藤嘉ら猛将たちの集中攻撃を浴びながら、一進一退の死闘を繰り広げた場所でしょうか

若い女性の観光客が写真を撮っていました。

久しぶりに見た観光客。といっても付近で地元民も2,3人しか見ていませんが^^;)

しかし、いかにも観光地な様子でないだけに、想像によって往時の雰囲気にスッと浸れる場所になっている気がして、いい感じです。まさに古戦場。

決戦地から笹尾山方面を見ると、いくつかの旗指物が立っています。

ふもとが島左近陣で、山のほうが石田三成陣か…けっこう登らねばならぬようです。

遠くに見えるのはあの有名な伊吹山?

ますます雰囲気が出てきました。

島左近陣跡には馬防柵が設けられ、往時の死闘を偲ばせます。

ここでの左近の鬼神のような戦いぶりは、敵である黒田家の語り草になったとか…

島左近陣跡の奥に、石田三成陣跡に続く階段があります。

や、山の上だ…とビビりながら階段を上がりますが、けっこうキツい。

しかし、上から初老の夫婦や若い女性が降りてくるではないですか。

負けてはおれません。

ようやく辿り着いた石田三成陣跡。

展望台も設けられています。

何人かの女性観光客が休んでいます。

しかし若い女性観光客が多いな…

石田三成陣跡より関ヶ原古戦場を一望。

正面に決戦地が見えるし、左の山は黒田長政の陣。

正面からは細川隊、加藤隊、田中隊らが迫ってきて…

運命の決戦が行われる地を見下ろしながら、自分の首を狙う武将たちとこうやって対峙していたのだなあ…などなど考えていると、時間を忘れます。

南に目を向けると、小西行長や宇喜多秀家の陣があった天満山。

それに対峙して福島正則や藤堂高虎がいて、

そうすると山の向こうには大谷吉継隊。

そして・・・奥の山が小早川秀秋の松尾山。

松尾山から小早川隊が大谷隊のほうに進軍するのを見た時、三成はどんな気持ちだったか…

そんなことを考えながら、しばし展望台に佇んでしました。

それにしてもこの関ヶ原、何とも言えない魅力がある地です。

ここから盆地を見下ろしているだけで充足感があります。

自分が関ヶ原の戦いに思い入れがあるからかもしれないけど。

我が家には関ヶ原を落ち延びた石田三成が逗留したという言い伝えがあり、うちの集落の伝統芸能も石田一族が伝えたとされています。

由来について - 山五十川-HomePage

起源については、これを詳かにつかめられないが、お能の宝物「能事始め」「神楽始め」の巻物、その他の文献資料や、伝えられるところによれば3つの説(文献によると2つともいわれている)があることが分かります。   一. 清和天皇の貞観年間中に天下泰平、国土安全の因縁から高貴な方が諸国ご巡歴遊ばされ、今の鶴岡市櫛引地域の黒川に多くの供奉の方がお出でなされし折、その一人堪能な人五十嵐兵右エ門氏なるものが、いかなる故か五十川谷沿いに入り実俣村、今の山五十川集落に参られ、永く居住して土地の農民に能楽たる「謡」と「仕舞」「切れ能」「恋慕の舞」を教えしめたのが縁起と伝えられる。   二. 長享元年、後小松天皇の第三皇子が諸国巡歴の旅に出られ、小名部に足を止め、後に黒川村に居住された。その供奉の一人が温海岳に籠り、天龍上人と称して河内大権現に参詣し、実俣村に住むようになり、部落民に謡・仕舞・恋慕の舞・金丹囃子を伝えたと言われている。   三、 寛永年間に豊臣の勇将石田三成が関ヶ原の一戦で徳川の勢に敗れ去り、涙をのんで主君秀頼公の身を安じつつ刑場の露と消え去ったが、その寸前子孫は四方に離散、洛陽の姓を「井波」と改め「石田治郎部少輔」なるものが徳川の追手をのがれ隠れ「天龍上人」と称して東北に旅せしに、いかなるゆえんかこの地「温海岳山」に籠り、たまたま村里に降りて河内大権現の祭を見てより岳山籠りを思いとどめて現在の一の鳥居上天龍屋敷の地に住居し、時折実俣村の若連中の能囃子を見て、山家には珍しき能楽なりと讃美し給いて、われも日頃たしなみし囃子方を教えんと「道行囃子」と「金丹囃子(座揃囃子)」を教え、これまた携えて来た、よこ鳩の小袖一枚と縫いちらしの小袖一枚それに鳴物笛、太鼓、小鼓を授け賜ったと文献(巻物)に記されている。    天龍上人の住居したところを天龍屋敷と呼びささやかな塚がありますが、以前は一本の大杉ありて大岩にしめ縄を張って天龍の大神を崇拝してあったが、その遺跡の根拠をさぐること能わざるは遺憾である。現在も諏訪台門では天龍の大神を「日待」毎に掛物をかけ崇拝しており、また集落でも古い習しとして天龍上人が実俣村と蕨野村に、米二俵づつを下し給いて、これで酒をつくって6月15日には牛頭

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でもそれらを知る前から、なぜか私は小さいころから三成贔屓でした。

自分が子どものころなんて、ドラマだと石田三成はたいていイヤな奴だったのに。(「おんな太閤記」とか「徳川家康」とか)

たぶん小学校にあった歴史マンガの影響と思われます。

笹尾山を下り、天満山方面へ。

ここで関ヶ原に来て初めて若い男のグループとすれ違いました。

これまでは女性ばかりだった…

田畑を抜け、住宅地の中を進んでいくと、神社の裏に敵中突破の島津義弘陣跡。

島津陣の目と鼻の先に関ヶ原開戦の地。

関ヶ原の戦いにおいて、島津軍は敵中突破まで戦わなかったと言われますが、実際は巧みに鉄砲を駆使しながら戦っていたみたいですね。

この先には小西行長陣があるようですが、歩き疲れていたし、時間がないしで断念。

それにしても、基本的にはのどかな田舎町です。(ほめ言葉)

町角や田んぼ道でひょっこり史跡に出会う、という感じ。

あまり開発されておらず、人工的なレジャー施設も少ないうえに、関ヶ原の戦いを演出した地形(笹尾山とか松尾山とか)がしっかり残っているので、東西の有力武将が集結し、日本史上の分岐点にもなった天下分け目の決戦が繰り広げられた往時の雰囲気にじっくり浸ることができます。

何だか癖になりそうな土地です。(飲食できる休憩所は欲しいところですが)

しかし、関ヶ原ウォーランドや徳川家康本陣、大谷吉継陣跡、松尾山など、訪問できなかった場所がまだまだあるーっ

明日は行けるか?

後ろ髪を引かれながらも、夕闇迫る関ヶ原を後にし、今日の宿がある大垣へと向かいます。

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